アントニヌス・ピウス(Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius)
生没 紀元 86年9月19日〜紀元161年3月7日
在位 紀元138年7月10日〜紀元161年3月7日
私的評価
統率D
知謀D
武勇D
政治A
魅力A
人類が最も幸福だったと評された五賢帝時代、その中でも帝政ローマの始祖アウグストゥスに次ぐ最長の統治期間を誇るのが「慈悲深きアントニヌス」ことアントニヌス・ピウスです。二十三年にも及ぶ治世はあまりにも平穏でアントニヌスの時代は何も書くことがないと歴史家を嘆かせたほどですが、皇帝は首都を一歩も離れずほとんどの政務を宮殿か元老院の議場で行いながら属州ブリタンニアに築いた長城など国境防衛の強化を手掛け、国内では法律や行政の改革を志しながら学問や芸術を奨励、劇場や神殿などいくつかの建造物も建てています。ローマ建国九百年を祝った祭りはあまり大規模で財政が傾いたとも言われますが、人々は彼の金字塔ともいえる式典を平和と繁栄の中で楽しむことができました。
アントニヌス・ピウスの死後、彼の後継者がたびたび叛乱や蛮族侵入に振り回されたことを指して皇帝は目の前の課題を片づける能力こそ優れていたが長期的な視点に立つ統治はできなかったのだ、ということはできるかもしれません。ですが誰よりも長く誰よりも平和な時代をもたらした皇帝が評価されないなら誰も救われないでしょう。慈悲深い皇帝の下で人々は歓呼の声を上げて建国九百年を迎えた、アントニヌスの統治がいわゆる善政だったことは疑いようのない事実です。
† † †
出生時の名前はティトゥス・アウレリウス・フルヴィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス。長ったらしいのは彼の生まれの良さの証明で、名門貴族のフルヴィウス家とアントニヌス家の双方を受け継いだ青年は二十五歳で財務官になると順調に出世を重ねて三十歳で法務官に就任、この頃に生涯の伴侶となる妻ファウスティナと結婚しています。ファウスティナは皇帝の姪の曾孫という血筋で文句のつけようもない皇族の一員ですが、その彼女と自由恋愛で結ばれたアントニヌスの家柄が分かろうというものでしょう。
当時、属州出身の皇帝ハドリアヌスはローマを繁栄させながら元老院は歯牙にもかけず、多くの議員が陰口をたたいていましたが男色家の皇帝には妻がいても息子はいませんでしたから、イタリア本国出身の有力貴族から後継者が選ばれれば彼らの自尊心は満たされるはずでした。最初に期待された若いケイオニウスが結核にかかって急逝すると、皆は落胆しましたが皇帝は人望も実績もある名門貴族アントニヌスを養子に迎えます。ハドリアヌスの十歳下では若々しいとはいえませんが、当時すでに執政官や近衛軍団長官、属州総督などを歴任していた彼の手腕を疑う者はいませんでした。アントニヌスの更に次代を担う後継者として後の哲人皇帝となるマルクスと、ケイオニウスの遺児ルキウスを養孫に迎えることも定められて、幼い彼らが成人するまでアントニヌスはローマを預かることを任せられました。
こうして皇帝の後継者として認められたアントニヌスですが、当時病が篤くなっていたハドリアヌスはもともと気むずかしい性格が更に偏狭になると近侍や重臣に当たり散らすようになっていました。それは賢帝として認められるハドリアヌスが記録抹殺刑にされても仕方がないと思えるほど横暴なものでしたが、養父を擁護したアントニヌスは明らかに理不尽な命令や処断を先送りにしつつハドリアヌスが崩御した後ですべて恩赦してしまいます。
「先帝がご健在ならば必ずこのようにした筈である」
生前のハドリアヌスを弾劾する声に頭を下げて懇願してまわったアントニヌスに元老院は先帝の神格化を認めるとアントニヌスには慈悲深さを意味する「ピウス」の呼び名を贈ります。新皇帝アントニヌス・ピウスは「皇帝位を継いだ名門貴族出身のピウス」として多くの期待を受けましたが、元老院にすれば養父から受け継いだ皇帝位よりも自分たちが贈ったピウスの称号こそ価値があるものに思えたことでしょう。
こうして皇帝位を継いだアントニヌスは所信表明で堂々とハドリアヌスの統治を引き継ぐことを宣言しますが、それは首都を蔑ろにしてもローマ全域を行脚した統治を継承するのではなく、巡行した先でハドリアヌスが起こした事業を引き継いで完成させるということでした。以降、二十三年の長きに及ぶ彼の統治で皇帝アントニヌスは属州や国境、陣営地に立ち寄るどころか首都を離れることすらありませんでしたが、皇帝がすべきことはすべての予定や計画をまじめに実行させることでそれがどれほど難事であるかは現代の役人の勤勉さを見れば明らかです。
宮殿から動かず遠隔統治を実現してみせたという点でアントニヌスの手法は皇帝ティベリウスに似ていますが、それでいて人から敬愛されたという点ではティベリウスを遥かにしのぐでしょう。カプリ島の別荘に引きこもったティベリウスが彼と親しい文人や学者だけを招いて善政を実現した一方で、アントニヌスは元老院議員とも親しく学者や文人も招いて善政を実現しています。内政におけるアントニヌスは法律の整備や行政改革を試みると、奴隷解放の制度を拡大したり犯罪の容疑者を罪人のように扱うことを止めさせて取り調べにおける若年者への拷問も禁止しました。軍事面でも辺境や国境周辺に兵士の増員や防衛線の強化を行い、実施は属州総督に一任していますがけっして軍団を軽んじることもしていません。
西暦148年、ローマ建国九百年を祝う盛大な式典と競技会が開催されると人々は皇帝に喝采の声を上げましたが、必要な資金を捻出するためにアントニヌスは当時流通していた銀貨の価値を5%以上も引き下げています。これはかつて皇帝ネロが行った措置にも勝る規模ですが、通貨切り下げをしたから悪帝というのであればネロとアントニヌスには同じ評価をするしかなくなってしまうでしょう。
ここまでの事跡でアントニヌス・ピウスが賢帝であり善政を行った皇帝であるという評価を覆すことは難しいと言わざるを得ません。過去にも現在にも、軍事でも内政でも経済でも、首都を一歩も離れなかったアントニヌスよりも無為で無能な為政者はいくらでも存在します。ですが皇帝アントニヌスの振る舞いは完璧でわずかの疑問も感じない、といえば些細な疑問は残るでしょう。家族や夫婦関係の頽廃が嘆かれていた当時のローマでアントニヌスは家族への愛情に満ちており、皇后ファウスティナとの関係以上に分かりやすい、行き過ぎた振る舞いに思える例が一人娘である小ファウスティナの嫁ぎ先でした。
もともとアントニヌスの夫妻は四人の子供をもうけていて、息子が二人に娘が二人いましたがよりにもよって長男と次男は皇帝が即位したその年に夭折、長女も亡くなってしまうと次女の小ファウスティナだけが残されていました。先帝ハドリアヌスはアントニヌスを養子に迎えた際に次の後継者として、トラヤヌスの系譜に連なる幼いマルクスと早逝したケイオニウスの遺児ルキウスを養孫に迎えています。年齢的にも血統的にも後継者はマルクスで、ルキウスには皇帝を補佐する側近としての役目が期待されていたことは明白で、このときに小ファウスティナとルキウスの婚約も決まっていました。いわば娘と養子の結婚になりますが両者に血縁関係はなく当時の法的にも問題はありませんでした。
ところが皇帝になったアントニヌス・ピウスは先帝ハドリアヌスの事業を引き継ぐと宣言した一方で、娘の婚約は解消して次期皇帝となるマルクスに嫁がせることを決めてしまいます。これも娘と養子の結婚ですが、マルクスの父と小ファウスティナの母は兄弟でしたから純然たる従兄妹で法的に問題はなくとも近親婚以外のなにものでもありません。後に彼らは十三人の子供をもうけますが総じて病弱でほとんどが長生きすることができなかったのも無理からぬことで、ローマを繁栄させたアントニヌス・ピウスが彼が望んだだろうアントニヌス家を繁栄させることができたかといえば微妙な選択をしてしまったように思えます。
後代の人々は慈悲深いアントニヌスに賢帝としての評価を与えています。例外があるとすれば一部の元老院議員でアントニヌスは家族への愛情のあまりたったひとつの過ちを犯したと力強く宣言してくれることでしょう。多くが夭折したアントニヌスの孫たちで、無事に成長することができた男子は後に「剣闘士皇帝」と呼ばれるコンモドゥスだけでした。
そして後代のイギリス人にとってアントニヌス・ピウスは属州ブリタンニアで有名なハドリアンズ・ウォールの更に北まで軍団を進出させるとアントニヌスの長城と呼ばれる防壁を建てた人ですが、実際には城とか壁と呼べるほど本格的なものではない土塁はその後二十年ほどで放棄されると「ハドリアンズ・ウォールの北にあるアントニヌス長城よりも更に北に住んでいるスコットランド人」といったジョークの種を人々に提供してくれました。
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