マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)
生没 紀元121年4月26日〜紀元180年3月17日
在位 紀元161年3月 7日〜紀元180年3月17日
私的評価
統率B
知謀D
武勇D
政治D
魅力A
古代ギリシアの時代から出現を望まれていたとまでいわれる「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスは現代でも君主の理想像として挙げられる人物の一人です。ですがその彼の治世は平穏にはほど遠く、国境では紛争や蛮族の侵入が相次いで属州叛乱も勃発、国力は衰えて財政は悪化の一途を辿り、後年は皇帝自身が病の身を押して戦地から離れることができなくなると数えきれぬ激務を抱えたまま前線で生を終えることになりました。
その統治の実績を見れば多事多難で無事に乗り切ったともいい難い、それにも関わらず多事多難なローマを治めたからこそ尊敬できるとさえ評されるのが皇帝マルクス・アウレリウスという人です。
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貴族で資産家でもあったウェルス家に生まれたマルクスは、神童という表現がそのまま似合う少年で幼い頃から皇帝ハドリアヌス直々に将来を期待されていたほどでした。当時の貴族の子弟に比べても特に多い、十人を超える家庭教師に学びましたが、その中でもストイックの語源にもなったストア哲学に特に惹かれると家でも質素な服を着て夜はベッドではなく地面に寝る生活をしたといいます。この少年を皇帝は「真面目なマルクス」と呼んでかわいがっていました。
心から家族を尊敬して祖父からは自制心を、父からは剛毅さを、そして母からは敬虔さを学んだという少年はわずか六歳で騎士階級に推薦されると神学校に入学させるためにハドリアヌスが自ら学校の規定を変えさせています。多民族多宗教国家のローマで、皇帝は国の最高神祇官を兼ねていましたから少年への期待のほどが窺えるというものでしょう。
後に病が篤くなったハドリアヌスは次期皇帝にケイオニウスを選ぶとマルクスを首都長官に、ケイオニウスが急逝してアントニヌスを後継者に選ぶとマルクスとケイオニウスの遺児ルキウスを新帝の養子に指名しており、成長したマルクスに皇帝位を継がせるつもりでいることは誰の目にも明らかでした。誰もがそれを当然だと思いながらマルクス自身は自分が指名されたことに驚いて、宮殿で暮らすことになったときも家族と離れることを悲しんだといいます。
ハドリアヌスが病没してアントニヌス・ピウスが帝位につくと、新帝はルキウスと婚約していた娘のファウスティナをマルクスに嫁がせることを決めました。もちろん娘を皇妃にするためで、マルクスとは正真正銘の従兄妹同士でしたがマルクスも養父の言葉に従うと結婚を受け入れます。皇帝の養子で皇帝の婿にもなったマルクスですが、相変わらず質素な生活を好んだのでアントニヌスからお前はもっと華やかな生活をしなさいと嗜められています。
「宮殿は退廃しています。私は自分を律しないといけません」
成長して十八歳になったマルクスはやはり特例で財務官に就任しますが、いつも首都を離れないアントニヌスの傍らに置かれていた青年には軍団の仕事はなく議場で皇帝の手紙を代読するのがせいぜいでした。それでも若くして元老院に放り込まれたので弁論術は身についたらしく、青年と特に親しかった家庭教師フロントは勤勉な弟子に向けて、君は哲学よりも弁論を大事にしなさいと諭しますがマルクスの哲学好きは生涯治らなかったようです。その後も執政官に就任するなど順調に役職を重ねたマルクスですが、首都を離れず前線に赴いたことがないという事情は変わりませんでした。
そして西暦161年、老齢になった皇帝アントニヌスは彼の女神像をマルクスの部屋に移すように命じると息を引き取ります。元老院はさっそくマルクスに帝位を継いでもらうように懇請しましたが、当人はこれを渋ると彼と一緒にアントニヌスの養子になっていたルキウスとの共同皇帝になることを宣言します。真面目なマルクスに比べてルキウスはいかにも陽気で貴族的な青年で、気のいい王子様として慕われてはいましたが頼りになるとはとてもいえず、ルキウス自身を含めて誰もが皇帝はマルクスだと思っていたので皆が驚きました。
実は共和政復帰を望んでいたマルクスが単独の皇帝ではなく二人の執政官による統治を復活させたのだ、という意見はさすがに妄想が過ぎるでしょう。ルキウスが享楽的な青年であることはマルクスも知っていましたが、あくまで自分が指名されるならルキウスも一緒に指名されないと不義理になると考えたに過ぎません。彼にとって為政者に求められるのは能力ではなく人の模範になる正しい振る舞いで、だからこそ彼は「真面目なマルクス」で「哲人皇帝」なのですから。
こうして二人の皇帝による統治が始まりますが、基本的に一方は遊びほうけて何もしなかったので統治そのものはマルクスに一任されています。皇帝マルクスは人事に親しい人を選んでしまうきらいがあり、要職のほとんどが彼の恩師やその子息で固められることにはなりましたが、彼が選んだだけあって真面目な人ばかり揃っていたのでそれはそれで現代の政治家にはない資質の持ち主を集めることができました。政策では弱者救済を進めて言論の自由も保証、国交は遠く中国まで及んだとも伝えられて後漢時代の記録に安敦(あんとん)の名が残されています。皇帝になって後も質素な生活と謙虚な振る舞いを続けて誰からも尊敬されたマルクスの時代、ローマは混迷を深めていくことになります。
マルクスとルキウスが皇帝に就任して早々、隣国パルティアがローマの同盟国アルメニアに侵攻します。皇帝が死ぬと不穏になるのはパルティアの恒例行事ですが、派遣した将軍が大敗するとローマが弱くなったと見くびられて遠くゲルマニアやブリタンニアの蛮地にも飛び火、蛮族が国境を越えてイタリア本土が蹂躙される事態に発展してしまいました。恩師フロントはマルクスに宛てて、過去にも我々が敗れたことは何度もあるが最後には力を思い知らせてきた、と綴りますが弱腰になれば揺らいでしまうのが「ローマの平和」です。
とにかくまずは東のパルティアを何とかすることにしたマルクスは経験豊富な将軍と軍団を次々に送り込むと、彼らを統括する司令官に最初は従兄弟のリボを、後には共同皇帝のルキウスを送り込みました。実のところ彼らは戦争にはほとんど関わりませんでしたが、それはそれで素人に現場を荒らされずに済んだ将軍たちが数年をかけてアルメニアを奪還、パルティアを追い払うことに成功します。久々の凱旋式に民衆は熱狂しますが、帰国した軍団から疫病が流行するとルキウスは帰らぬ人となってしまいました。
この間、放置されていた蛮族たちはさんざんローマを荒らしますがパルティアから将軍や軍団が帰国すると今度はマルクス自ら指揮を執って反撃を開始、もしものことがあったときのために唯一の息子コンモドゥスを後継者に指名します。マルコマンニ戦争と呼ばれるこの戦いは結局マルクスの存命中に終わらせることはできませんでしたが、蛮族を国境まで押し返すことはできました。戦争は十年以上も続き、国力は疲弊して財政は傾き誰もが辟易としましたが、誰よりも苦労しているのが皇帝だから誰も文句を言えませんでした。
マルクスは若い当時から身体が弱く、慢性的な胸の痛みに苛まれて薬を手放すことができなかったといいます。話によれば痛みを和らげるために麻薬めいたものも用いており、そのために専任の侍医がいて薬の悪影響がないよう慎重に処方していました。それでいてマルクス自身は静養先でさえ仕事の手を休めることができない性格で、もっと身体を労わって休むようにとたびたび周囲の人間に諭されています。昼間は寒風吹きすさぶゲルマニアで泥と雨に晒されながら戦いの指揮を執り、夜は陣営に戻ると山のような政務に没頭する。この時期に皇帝が自分自身へと題して綴った記録が有名な「自省録」で、それは過去のラテン文学の名人たちが残したような美しい言葉で書かれてはいませんがローマはもちろん古代史上でも稀有な思想の結実として後代の模範となりました。
皇帝にして哲学者であり続けたマルクス・アウレリウスは理想の統治はできずとも模範的な君主の姿を示し、だからこそ彼が統治するローマが平穏でなかったことを悔いていたであろうと思います。五賢帝時代の最後を飾る皇帝マルクスの統治は歴史的にはローマを崩壊させなかったというだけでさしたる事績も残すことはできず、皇帝は禁欲的で献身的だが凡庸だったと断じるしかありません。
当時においても後代においても理想的な人物として誰からも尊敬される、誰も彼を真似しようとはせず真似ができるとも思えない凡庸な皇帝。それが哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスなのです。
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