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コンモドゥス(Lucius Aurelius Commodus Antoninus)



生没 紀元161年8月31日〜紀元192年12月31日
在位 紀元180年3月18日〜紀元192年12月31日

私的評価  統率B 知謀D 武勇D 政治D 魅力A

 帝政ローマで暴君とされる皇帝といえば誰からも嫌われたティベリウスとドミティアヌス、へぼ詩人のネロやママに政治を壟断されたクラウディウスが挙げられますが、彼らは失点こそあれ為政者としては評価される事跡も残していて擁護の声が聞かれることも珍しくありません。きちがい扱いをされたカリグラも人気取りが引くに引けなくなって暴走した側面もあり、ばらまき政策を歓迎する人が二千年後の現代にもいることを思えば情状酌量の余地はあるでしょうか。
 そしてネロやカリグラに劣らず暴君として知られているのが皇帝コンモドゥス、棍棒を手に獣の毛皮をかぶった彫像と「剣闘士皇帝」の異名だけでその治世が想像できる人物です。かつて人類が最も幸福だったといわれる五賢帝時代、その次がコンモドゥスだということは彼が五賢帝時代を終わらせたという意味でもありました。

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 哲人皇帝マルクス・アウレリウスと小ファウスティナによる従兄妹同士の結婚は、十三人の兄弟姉妹を世に送りますが総じて病弱で早逝すると男子では唯一コンモドゥスだけが無事に成長することができました。それまで帝政ローマで実の息子が皇帝位を継いだ例は平民出のフラヴィウス朝を除けば皆無でしたから、アントニヌス・ピウスの孫でトラヤヌスやハドリアヌスを先祖に持つコンモドゥスは歴代でも群を抜いて高貴な血筋の少年だったのです。映画や物語では野蛮な息子が人格者の父を絞め殺した、などと描かれることもありますが競争者のいないコンモドゥスが父親を殺す理由はありません。周囲の人々も息子が父を継ぐことは当然だと考えると皇帝の色である「紫の皇子」の名で少年を呼んでいます。母親が剣闘士と浮気をして生まれたという後代の醜聞も、あまりにも父親似の彫像を見ればありえないことが分かるでしょう。
 戦乱や疫病に振り回される日々の中で、父帝マルクス・アウレリウスはわずか五歳のコンモドゥスに副帝カエサルの呼び名を与えると息子の教育を自ら買って出ましたが、聖人君子ではあったけれど才人とは言い難い父に教えられたことが少年の成長にどれだけ寄与したかは分かりません。十一歳になったコンモドゥスは父に従軍してドナウ川の最前線に赴くと、もともと戦場と縁遠かった父子は軍人としては凡庸でしたが一家全員が前線に暮らして兵士と寝食を共にしたので少なくともこの当時も、これ以降も兵士たちはマルクス・アウレリウスとコンモドゥスを彼らの皇帝として敬愛し続けました。

 父の傍らで、最前線の戦場で育ったコンモドゥスは弱冠十六歳で父と同じ皇帝位を与えられて正式に共同皇帝として認められることになります。ネロやカリグラよりも若い歴代最年少とはいえ、父帝が健在で十一歳で従軍した皇子様に異論を唱える者は誰もいません。とはいえその二年後、最前線の激務に耐えていた父が病床に倒れると十八歳のコンモドゥスはただ一人の皇帝として残されてしまいます。
 コンモドゥスは父がそうだったように陣営地で兵士と寝食を共にした皇帝ですが、父と自分が何年もかけて追い払うことができなかった蛮族を今更屈服させる自信はありません。父が健在の頃から和睦の可能性が探られていましたが、この機にコンモドゥスは蛮族との講和を取り決めます。蛮族と妥協するとは勇敢な父にふさわしくない息子だと元老院は陰口をたたきますが、だらだらと続いていた戦争を終わらせたことはコンモドゥスの英断で征服地を引き上げたことで軍事費が大幅に削減されて、現地も蛮族自身に守らせたので国境はよほど平穏になりました。軍事国家ローマで戦場を放棄した皇帝は非難されるのが常ですが、戦争による負担を減らして平和にしたコンモドゥスは賢明だったとする歴史家は少なくありません。

 最前線から帰還した若い皇帝は国境や最前線への備えを属州総督に一任します。辺地のブリタンニアで暴動が起きたときは皇帝自身がたしなめるとすぐに鎮まりますが、このときコンモドゥスは暴動に加担した兵士や幕僚を許す一方、彼らを更迭しようとしたとして近衛長官ペレンニスを処断していますがこれは不正な蓄財を行っていた近衛長官を口実を作って粛清したとも言われています。コンモドゥスが治めるローマはそれなりに繁栄しましたが、ペレンニスの例に見られるように近臣や家族が若い皇帝を侮る例があったことは否定できません。市民と兵士からの人気は高く、そのままであれば賢帝とはいえずとも充分に及第点の皇帝として扱われることができたでしょう。
 コンモドゥスの兄弟姉妹は男子がすべて死んでいましたが姉が四人、それぞれ貴族の家に嫁いでいます。コンモドゥスと同じく彼女らは歴代皇帝と比べても高貴な家柄で、特に長女のルキラは父帝マルクス・アントニヌスの共同皇帝ルキウスに嫁ぐとアウグスタの称号を得ていました。つまり彼女の権威は皇帝に並びますが逆にいえば彼女にはそれ以外の後ろ盾がなく、いつ失脚しても不思議はありません。彼女は弟を殺そうと暗殺者を雇い、観劇に訪れていたコンモドゥスを襲わせます。

「元老院の命により暴君を討つ!」

 マヌケな暗殺者がこのようなことを叫んでいる間に近侍たちが取り押さえてしまい、背後の事情が知れるとルキラも流刑にされました。事件は未然に防がれて、皇帝に落ち度はなく事件は単なる醜聞に過ぎません。ですが多くの人、特に元老院議員にとって不幸なことに、市民にも兵士にも好かれていたコンモドゥスは元老院議員が自分を殺す大義名分を持っていることを知ってしまったのです。共和政復帰など誰も本気にしていませんが、元老院はそれを振りかざすことができる集団でした。
 コンモドゥスは為政者としては仕事を他人に任せる旦那気質の人で、すぐれた部下は手腕を発揮しやすい一方で好き勝手を許してしまうきらいもありました。このような主君の下で佞臣や奸臣が現れがちなのはペレンニスの例でも明らかですが、後任の近衛長官クレアンドロスも前任者に劣らず残念な人物でした。優秀だが私腹を肥やしたペレンニスとは違い、無能で私腹を肥やしたクレアンドロスがローマに飢饉を招くと市民が激怒、大挙して宮殿に押しかけると開いた扉の隙間からぷるぷる震えている近衛長官が押し出されてそのままばたりと閉じました。クレアンドロスは下水に流されて民衆は喝采を叫びます。

 側近に裏切られた皇帝は今度は自分でローマを治めることになりますが、そのコンモドゥスが最初にしたことは自らをルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘラクレス・ロムルス・エクスペラトリス・アマゾニウス・インウィクトクス・フェリクス・ピウスに改名したことでようするに自分はヘラクレスの化身だと宣言します。皇帝よりも偉い神様だという子供じみた発想ですが、多民族多宗教国家のローマで過去になかった例ではありません。気の毒なのはこれがあまりにも似合っていたことで、人々は彼の統治よりも棍棒を手にした皇帝の姿を記憶に残してしまいます。
 実際に戦士として優れていたコンモドゥスは棍棒より槍や弓が上手く、走っているダチョウの頭を正確に射抜くこともできました。皇帝が闘技場に立つのは始球式で時速160キロの剛速球を放るようなものですから、これで喝采が起こらない筈がありませんが元老院は苦笑するしかありません。それでも皇帝が元老院を暗殺者の元締めだと考えず、元老院が皇帝を野蛮人だと考えなければ両者は妥協することができたでしょう。仕留めた野獣を誇らしげに掲げる皇帝の姿を見て、元老院議員は皇帝が自分たちを脅していると考えていたのです。

 コンモドゥスの統治は気の毒なほどに権威を示そうとして、軍団や艦隊や元老院の議場にまで自分の名前をつけると「コンモドゥスの日」を定めたほどですが、それでいて政策そのものへの批判はあまり聞かれません。後に皇帝が殺されたのも愛妾マルキアによる家庭内のいざこざで、ワインに混ぜた毒を吐かれると控えていた剣闘士ナルキッソスが乱入して皇帝は絞め殺されてしまいました。コンモドゥスの死に喝采した元老院は記録抹殺刑を宣言して、ほとんどの彫像や記録を消し去りますがローマは再び内乱の時代に突入すると以後は二度と立ち直ることのない衰退の道を辿っていくことになります。内乱を制した新皇帝セヴェルスは居並ぶ元老院議員に言いました。

「諸君はコンモドゥスが獣を殺したのが恥だと言う。では諸君が獣に扮した娼婦と寝ているのは恥ではないのかね」

 長い戦争が終わって財政の重荷になっていた軍事費を削減、皇帝自身は兵士と共に戦い市民の前にも積極的に姿を見せたスポーツマンだった。剣闘士皇帝コンモドゥスは多くの獣を殺しましたが、実際に彼に処断された人間はといえば暗殺者と私腹を肥やした政治家の名前が伝えられています。
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