其乃一.蒼天が落ちて女装した男どもが走る
時は西暦二百年前後。舞台は大河と長江に挟まれた古代中国の漢帝国である。時の皇帝リュウコウ(劉宏)は政治も軍事もいっさいがっさい他人に任せて、ひたすら宮殿で遊蕩に耽るだけという肉人形のような人物だった。中興の末に栄えた後漢と呼ばれる帝国ももはや腐敗して久しく、贅をつくしたきらびやかな都を一歩外に出れば、巷には飢饉と疫病が蔓延し、野良犬と野良人が徘徊して人を襲っていた時代である。この皇帝陛下に取り入って、というか傀儡の皇帝を擁立して思うままに権力を握っていたのが十常侍と呼ばれる宦官たち。本来は皇帝の身の回りを世話する侍従団だったはずが、いまでは肉人形を好きに操る実質的な帝国の支配者だった。宦官とは皇族に仕えるために男根を切った男たちのことで、十常侍といっても実際には十二人いたから数を数えるのは苦手らしい。
当時、太平道という新興宗教があった。医術や予言に長けていて、もとは共同生活をして病人や貧乏人を助ける互助会のような集まりだった。その年は飢饉や疫病が特にひどく、宗教のお世話にでもならないと死んでしまうから多くの人が太平道に入信した。なにしろ畑を耕しても作物は実らないし野盗になっても奪うものすらないのだから、百姓も盗人もこぞって太平道に入信した。そして当然の成り行きだが、急速に信者が増えると彼らの中に世の中への不満という抑えきれない世論が沸騰する。教祖のチョウカク(張角)は「蒼天は死んで黄天が立つ。甲子の今年が天下大吉だ」というスローガンを掲げたが、ようするに漢帝国はもうだめで今年こそ新しい国が興るのだと言って人々を扇動した。彼らは黄色い布を頭に巻いて黄巾党と称したが、黄巾の乱と呼ばれるこの動乱は国を倒そうとはしたが新しい国を興そうとはしなかったから、単なる暴動以上にも以下にもならなかった。
この事態に皇帝陛下は大山鳴動することもなく山のように動かなかったが、宮殿から一歩も出ず飢饉も疫病も起きていることすら知らなかったのだから無理もない。血涙を流して動乱勃発を直訴した臣下もいたが、「それは嘘でございます」と宦官に言われるとなんて不吉なことを言う奴だと怒って処断してしまう。ある意味で皇帝は傑物には違いなかったが、肉人形の耳を塞いだ十常侍も動乱は鎮めなければならないから、皇妃の弟であるカシン(何進)を大将軍に抜擢すると彼に責任を押しつけた。下賤な生まれを意味する「肉屋のせがれ」と呼ばれた彼は各地に檄文を送ったが、内容はといえば自分の身は自分で守れというものだったから地方の豪族が武装する口実になってしまう。決起した諸侯は英雄名将の集まりとは言い難く、たびたび苦戦をしたのだが、残念ながら黄巾党を率いる賊将たちも英雄名将ではなかったから最終的には討伐されるとチョウカクも病に倒れて死んでしまった。
人の病を治した教祖様も自分の病は治せなかったらしい。
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黄巾の乱を鎮めた官軍は凱歌を上げて帰還する。地位や褒美も与えられることになったが、それで軍人にでかい顔をさせたくない十常侍はさてどうしたものかと考える。大将軍となったカシンの後ろ盾はもちろん姉の皇后陛下だが、彼女を推挙した宦官はいわば皇后の恩人だった。だから国の乱れを憂う者が宦官追放を進言しても「たかが侍従に何ができましょうか」と皇后陛下に言わせればとりあえずはこと足りる。もちろん進言した当人にはよくて辺境、悪くて牢獄暮らしが待っているという寸法だ。こうして立場を安んじた十常侍は、皇帝直属の近衛軍団を創設すると宦官の一人を司令官に任命する。もちろんカシンに対抗するための措置だったがこの人事で名門貴族のエンショウ(袁紹)や黄巾討伐に活躍したソウソウ(曹操)といった後の群雄英雄たちが抜擢されるきっかけにはなった。
乱は鎮定されたが人々は貧しいまま、都では宦官と軍人が対立して地方では領主が武装する。こんな状況が続いていた中で怠惰と遊蕩に人生を費やした皇帝陛下がぽっくり死んでしまう。享年わずか三十三歳、生前にふさわしく無為無能な人を意味する「霊帝」のおくり名が与えられると、後継には皇后陛下の子、すなわちカシンの姉の子であるリュウベン(劉弁)が立てられた。陛下は御年十四歳、大将軍は太后の弟で、宦官は太后の恩人ということになって宮殿のバランスは益々微妙なモノになる。政治よりも軍事よりもまずは宮殿の支配者を決めること、そのためにカシンは姉さんを説得しなければならぬ。莫迦莫迦しい話だが当事者には深刻な問題だ。
姉を説得するために諸侯を呼んで後ろ盾にしよう。そう考えてエンショウらに相談したカシンだが、そんなことをすれば騒動の原因になるとたしなめる声があがる。軍隊を並べて太后に迫るのがそもそも剣呑だし、宦官だって黙っているとは思えない。なにより軍勢を都に呼んだなかに胸にイチモツある輩が混じっていれば乱が起きても不思議はない。煮え切らない議論が続いたが、それでもカシンがおふれを出すと確かに宦官は追い詰められた。いずれ都が大軍に囲まれる前に何とかしなければならぬ。彼らが至った結論はこうである。いっそカシンを殺してしまおうか。
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世評は宦官に否定的だしもちろん宦官を好きな兵士もいない。もしも大将軍が害されれば皆が黙っておらず、いくら宦官でもそんな愚行をするものかというカシンの推察は正しいが、残念なことに人間は正しいから動く生き物とは限らない。宦官どもが不穏ですぞという忠告をどこ吹く風で聞き流していたカシンだが、あるとき朝政にかこつけて宮殿に呼ばれると槍と刀に迎えられてあっという間に塩辛のようにされてしまう。罪状は殺してから決めればよく、非難されたら身代わりを立てればいい、それが何百年も続いた漢帝国の伝統だ。こうして太后陛下の弟君にして大将軍閣下であるカシンはあっさり殺された。
だがカシンが言ったとおり宦官が大将軍を殺して皆が黙っている筈はない。もともと出自の低かったカシンは親しみのある言動が意外と兵士にも好かれていたから、当時都にいたエンショウは大義名分を得て喜び勇んで激怒すると、宦官の不義理を罵り「大将軍の仇討ちをするのだ」と叫んで皇帝陛下が住まう宮殿へと殴りこんだ。従弟のエンジュツ(袁術)と二人、この機に宮殿の大掃除をしてしまおうと宦官皆殺しを命令するが、宦官とは去勢した変性男子のことだからヒゲのない男やなよなよした男、男らしくない老人まで誰彼かまわず皆殺しにしてしまう。彼らが確保すべきは皇帝と太后の身柄だったから、女子供には手を出さず暴行も略奪も厳禁して、宮殿には忠臣蔵ふうの虐殺だけが横行した。
ところが宮中には怯える太后陛下はおわしたものの肝心の皇帝陛下の姿がない。皇帝と異母弟のリュウキョウ(劉協)が二人、先んじて宦官とともに宮殿をお逃げあそばしていたのである。もちろん十歳そこらの子供たちが自分で逃げたはずもなく、さらわれたに違いないが「女子供以外は皆殺し」の討ち入りから逃がれるために女装したおっさんたちが子供を連れて遁走する姿はさぞかし颯爽としていたことだろう。
これが漢帝国の事実上の支配者であった十常侍最後の晴れ姿。
喜劇の幕開けに相応しい。
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